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★ 傑作《ペール・ギュント》について

そもそも《ペール・ギュント》って何なのでしょう?

《ペール・ギュント》とはノルウェーの大劇作家ヘンリック・イプセン(1828〜1906)によって書かれた劇詩です。本のタイトルであり、主人公の名前。それが《ペール・ギュント》なのです。

イプセンは全26作品もの劇詩を残した世界的作家であり、その作品は現在でも世界中で上演され、シェークスピアに次ぐ上演回数を誇っています。

幼い頃父親の会社の倒産により財産を競売にかけられ一家貧困に窮したり、薬剤師見習いとして働きに出るものの非嫡出子をもうける等、波乱万丈な青年時代を送ったイプセンですが、1849年に処女作となる「カティリーナ」を執筆そ、翌年には「勇士の塚」が劇場で初めて上演されました。1852年、オーレ・ブルの働きかけで、ブルの設立による「国民劇場」の劇場支配人兼作家を任され、劇場用に多くの劇詩を発表しました。1857年にはオスロのクリスチャニア劇場の芸術監督に任命されます。1866年に発表した劇詩「ブラン」がヒットし、その一年後、次の作品として発表されたのが《ペール・ギュント》でした。1867年に劇詩本として出版されたこの《ペール・ギュント》は、前作「ブラン」の成功もあり、大変な売り上げを記録しました。

元々《ペール・ギュント》は上演用に執筆されたものではなかったようです。舞台道具や舞台情景があまりに大掛かりになりそうで、上演する事が現実離れしている様に思えたからです。しかし数年後、彼はこれに音楽をつけたらどうだろう・・・と考えを変えます。そこで、ピアノ協奏曲の成功で新進気鋭の作曲家として世界的に注目を浴びていたグリーグに手紙を宛てたのです。

 

ヘンリック・イプセン
Photo : Fratelli Alessandrini / Ibsen net
.(写真の無断使用は禁止します)
 

1874年1月23日付けの手紙には、劇詩《ペール・ギュント》に必要な曲をつけて欲しい、という依頼が書かれていました。グリーグはすぐに承諾の返事を送りましたが、この手紙は途中で無くなってしまい、イプセンがグリーグの返事を知ったのは2週間後でした。
グリーグはすぐに作曲に取り掛かりましたが、この仕事は思いの他グリーグを苦しめました。ペール・ギュントの話しが音楽的ではなく、「やっかいな仕事を受けてしまったものだ」と友人にも手紙で打ち明けている程でした。

結局一年半を費やし、1875年にようやく戯曲《ペール・ギュント op.23》が完成。翌年の1876年2月24日、オスロのクリスチャニア劇場で初演され、大成功をおさめました。グリーグもイプセンも初演には姿を見せませんでしたが、同年11月、グリーグが初めて公演に訪れた時には観客の喝采に応え、上演中2度も舞台に上がらされたほどでした。グリーグとイプセンの名前を世界に知らしめたこの戯曲《ペール・ギュント》は、全5幕26曲から成る大作である。後にグリーグは当時最も人気の高かった曲を抜粋し、4曲ずつにまとめ、1888年に《ペール・ギュント組曲第1集》が、1893年に《ペール・ギュント組曲第2集》が出版されました。この組曲はグリーグ自身により、ピアノ独奏版、ピアノ連弾版、管弦楽版が出版されていますが、第2組曲の初版版は全5曲で出版されています。第5曲目に「山の魔王の娘の踊り」が加えられていましたが、2ヵ月後、グリーグ自身の手でこの曲が外されています。組曲としては「ソルヴェイグの歌」で終わる方が優れている、と判断したからだそうです。

グリーグの代表作として今尚、多くの人々に愛され続けている《ペール・ギュント組曲》。グリーグは、この組曲が出版される以前より戯曲を自身でピアノ独奏版にアレンジし、楽しみとして弾いていました。連弾版は妻ニーナと楽しんでいたようです。ピアノ独奏版は出版後、手軽に有名曲が楽しめるとして、当時多くの人から支持され、受け入れられました。

《ペール・ギュント》のあらすじはこちら

 
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