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★ グリーグってどんな人?

エドヴァルド・グリーグ(1843−1907)はグリーグはノルウェーの港町、ベルゲンに生まれた。
彼の家は代々海産物の輸出業で成功を収めた裕福な家柄で、芸術に対しては大変理解があり、家にはいつも音楽が溢れていた。グリーグの父は地元の名士、母はコンサートピアニストとして活躍する一方、ベルゲンで一番のピアノ教師としても有名だった。

このような環境からか、グリーグは幼い頃から音楽に興味を持ちはじめた。ピアノの鍵盤にやっと手が届く時から始終ピアノに向かって遊んでいた、そんな子供だったようだ。
母からピアノの手ほどきを受けると、すぐに即興や作曲もするようになり、徐々に音楽家になる夢を抱きはじめていった。

 
 
EDVARD GRIEG (1907)  Photo E. Bieber
THE GRIEG ARCHIVES /Bergen Public Library
(写真の無断使用は禁止します)
 

1858年、グリーグ15歳の時、伯父で世界的ヴァイオリニストのオーレ・ブルが一家を訪れた。ブルはヴァイオリニストとしてだけでなく、アメリカにノルウェー移民のコロニーを作ったり、当時デンマークの支配下にあったノルウェーの中で、ノルウェー独自の文化を推奨しようと劇場を作る等様々な活躍で、ノルウェー中の憧れの人だった。グリーグにとってもブルは神の様な存在だったが、ブルはグリーグが音楽に興味を抱いている事を聞くと、演奏を聴かせて欲しいと所望した。緊張して良く覚えていない、と語るグリーグに対し、ブルはグリーグに音楽の才能を認め、ライプツィッヒへの留学を勧めたのだった。

同年、グリーグは早々にライプツィッヒ音楽院に留学する。ライプツィッヒでは、その後彼を一生苦しめる事になる胸膜炎を患うも、優秀な講師陣の元、素晴らしいピアニストへと成長を遂げた。作曲や音楽に対する基礎も学び、1862年、グリーグは首席で音楽院を卒業する。

翌年からグリーグは更なる研鑽を積む為、コペンハーゲンに向かった。当時コペンハーゲンには重鎮ニルス・ガーデが築いた北欧一の音楽界があり、才能ある若い音楽家や芸術家が集っていたのだった。そんな中、グリーグは多くの刺激を受けると同時に多大なる影響を受けた仲間とも出会った。

リカルド・ノードローク(彼は現ノルウェー国歌を作曲した人)もその一人である。ノルウェー人のノードロークは、故郷に対して並々ならぬ熱い思いと誇りを持った人だった。初めて会った時からグリーグとノードロークは意気投合し、親友となった。グリーグは彼と接するうちに、長年模索し続けていた自分の作風や奏でる和音がノルウェーの民族音楽に根付いているという事に気づかされたのだ。こうして彼は自身の作品に、民族色溢れる新たな作風を用い、「ユーモレスク(作品6)」「ピアノソナタ(作品7)」「ヴァイオリンソナタ(作品8)」などを次々に発表する。

そしてもう一つは、後にグリーグの妻となったニーナ・ハーゲルップとの出会いである。ニーナとグリーグは従兄妹同士で、幼い頃は一緒にベルゲンで育ったが、彼女が8歳の時コペンハーゲンに引越した。ニーナは優れたピアニストであったが、グリーグはむしろ彼女の歌声に魅了された。お互い惹かれあった二人は1864年のクリスマスに密かに婚約を交わす。しかし、この結婚には両家共大反対だった。グリーグの将来が不安定だった事が主な原因だった。しかし翌年の1865年には正式に婚約が交わされた。
グリーグはこの時友人のアンデルセン(みにくいアヒルの子、マッチ売りの少女でお馴染みの童話作家)の詩に曲をつけた「心のメロディ 作品5」をニーナにプレゼントしている。1867年6月、グリーグとニーナは結婚。グリーグ24歳、ニーナ22歳の年であった。この結婚式に両家の両親は現れなかったという。

結婚後は故郷ノルウェーのクリスチャニア(現オスロ)に戻ったが、コペンハーゲンとは一転、当時ノルウェーには、まだ活気ある音楽界も、音楽家に対する理解も無かった。グリーグはピアノ教師やクリスチャニア交響楽団(現オスロフィル)の指揮の仕事でどうにか生計を支えながら、ノルウェーに音楽界を築こうと必死に活動した。

苦しい生活の中に光が射したのは結婚翌年の1868年、二人の間に女の子が誕生したのだ。アレクサンドラと名づけられたその女の子に家族はどんなに幸せを感じただろう。喜びの中で作曲した傑作「ピアノ協奏曲 イ短調 op.16」は、グリーグの名を世界に知らしめた。同年グリーグはこの名曲に興味を持ったリストから手紙を貰っている。これは若いグリーグにとって大変光栄なものだった。

幸せな生活は長く続かなかった。翌年娘アレクサンドラが病死してしまうのだ。グリーグもニーナも悲しみを押し殺し、ただ忙しく仕事をこなす日々が続いた。

グリーグのノルウェー音楽界の功績と努力は1874年にようやく実った。国から芸術家年金が支給されるようになり、グリーグはついに作曲に専念する自由を得る。この頃グリーグはニーナと共に多くのコンサートをこなす一方、ノルウェーの大作家ビョルンスチャーネ・ビョルンソン(彼はノルウェー国歌を作詞した人物)とよく一緒に仕事をしている。二人は国歌オペラ「オラフ・トリグヴァソン」の製作に取り掛かっていたが、途中からお互いの考え方にずれが生じ、未完のまま時が過ぎていった(この曲は未完作品op.50として出版されている)。

そんな中、1874年、グリーグはイプセンから詩劇「ペール・ギュント」への作曲依頼を受けるのである。グリーグはこの詩劇に音楽を合わせる難しさを痛感しながらも翌年1875年に戯曲「ペール・ギュント 作品23」を完成させた。この間1年半の歳月がかかっている。

初演は翌年1876年2月24日、オスロのクリスチャニア劇場で行われ、大成功を収めた。グリーグとイプセンの名はペール・ギュントの作品と共に一躍世界中に広まったのである。この成功により、グリーグはヨーロッパ中の音楽界で中心的人物となった。陽気でチャーミングなグリーグの周りにはいつも多くの人が集まり、リスト、ブラームス、チャイコフスキー、サン・サーンスらとも交流があった。
後の時代を担う作曲家ドビュッシーやラヴェルもグリーグの音楽に影響を受けているが、なかでもバルトークは特に彼を尊敬し、自国の民謡を用いる作風を確立させている。

世界各地から招聘され、グリーグの演奏活動はますます忙しくなっていく。ドイツの出版社、ペータースに作品を委嘱され、ヨーロッパ中の人々が新譜を待ちわびた。グリーグの小品は叙情的でメロディも美しく、親しみやすいことから多くの人に愛され、こぞって演奏されたのだ。こうしてグリーグはピアノ小品、声楽作品の巨匠としても、確固たる地位を築いていったのである。

1885年、ベルゲンに程近い新居「トロルドハウゲン」に移った。トロルドハウゲンとは、「トロルの住む丘」という意味で、身長が152センチしかなかったグリーグは(ニーナは154センチ)自分達を小さなトロルと称し、愛情を込めて自宅をこう呼んだのだった。
ピアノ作品の代表である「叙情小曲集」は第3集から第10集まで、このトロルハウゲンに移ってから書かれた。この他にもグリーグはますます精力的に演奏活動、作曲活動を行ったのである。

トロルハウゲンには主に夏の間だけ住んで作曲をし、それ以外の季節は演奏旅行の為、大きなトランクを持って世界中を飛び回る・・・そんな生活を送っていた。ライプツィッヒ時代に患った胸膜炎は度々グリーグの身体に発作を起こしたものの、晩年には、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学から名誉博士号を授与されるなど、グリーグの活躍はますます広がっていった。

1907年9月。この時もイギリスのリーズで行われる音楽祭に呼ばれていたグリーグは、いつもの様にトロルハウゲンを出発した。しかし旅の途中で体調を崩したグリーグはベルゲン市内の病院に搬送され、9月4日、そのまま還らぬ人となったのである。64歳だった。

世界中から慕われ、愛された作曲家の葬儀には各国の王族、皇帝はじめ友人知人からの電報、手紙が数多く寄せられた。4万人もの人がベルゲンに集い、ベルゲン中の家々が半旗をかかげ、偉大なる作曲家との最後を惜しんだ。トロルドハウゲンにある墓には、グリーグと、彼の愛する妻、ニーナが眠っている。

 
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